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先輩アトツギによる体験シェア
【鼎談】
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株式会社オオヤブ
デイリー
ファーム
代表取締役大薮 裕介 氏
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エアロシールド
株式会社
代表取締役木原 寿彦 氏
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一般社団法人ベンチャー型
事業承継 代表理事山野 千枝 氏
商品が選ばれる環境を自分で作ろう
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今日お二人と初めてお会いしますが、今日の結論の一つは家業の継ぎ方はものすごく多様化しているということです。昔は親と同じ仕事をやることが家業を継ぐということだったんですが、時代は変わりました。まず大藪さんからお話しいただきます。
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熊本県合志市で酪農をしながら乳製品を製造販売しています。畑はデントコーンがメーンで、牧草は協力農家さん、牛を育てて搾乳して、ヨーグルトとかをメーンに製造しています。牧場の理念は「次の世代を育むため、わが家のミルクにできること」というふうにミルクを生産する過程そのものをいろいろなものに紐づけていくというか。牧場のあり方というのは、妻と結婚したときにこれから木が育っていくイメージでこういう風な牧場にしていこうと。1975年に父が牧場を建て、2016年10月に法人化しました。
もともとは工作や物づくりが好きで、大学の時は服飾デザインや海外旅行に興味があってバイトばかりやっていましたが、母が倒れた時に初めて牧場の仕事を手伝いました。その後、アメリカを横断しながら牧場を視察するツアーに参加したときに、毎年海外旅行に行っている酪農家さんが結構いることに驚きました。父の友人に尋ねたら「うちは社員がいるから。ヘルパーとか雇えば行けるんじゃない」と言われて「そうか、お金と時間をマネージメントすればこんな自由な仕事はないな」と思って、就活をやめました。 -
それはお父さん仕組んでますね(笑)。
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20代のころは牧場に入ったばかりであれこれ言っても聞いてもらえないですよね。子牛の育成とかはきちんとやりましたが、だんだんやる気がなくなって、家事手伝い酪農家みたいな残念な20代を過ごしました。その後、口蹄疫とかBSEとかがあって、生産調整ですよね。父のすごいところは仕事の愚痴とかは一切言わないんですが、その時に「これ以上悪くなったら工事現場に働きにいかないとな」という弱音を聞いて、やっと目が覚めました。そこから動き始めて研究会とかに行き始めました。ある研究会の講師が電通でブランディングしていた方でその時に「牛乳が売れるとか売れないとか関係ないよ、あなたの商品に選ばれる理由はありますか?」と言われて、目の前がグレーからカラーに変わるくらいの衝撃を受けました。酪農家って自分の牛乳を自分で売れないんですよね、組合とかが決めた価格でしか売ってはいけない。でも売れる環境を自分が作っていない、売れないことを他人のせいにしていると気づきました。だったら選ばれる環境を自分で作ろうと思いました。もともと作るのが好きということと牛乳を選んでもらうということが、この辺から掛け算になっていきました。
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最初にお話ししていた、洋服デザインとかブランディングが好きだったことが、掛け算されると…。
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今日配っていただいた牧場のパンフレットも自分でデザインしました。酪農家の後継ぎというよりも、父が今でも回している牧場の魅力を活かして選ばれ続ける仕組みを作ってきたという感じです。選ばれるには知ってもらわないといけないので展示会とかに出まくって、いくつかは賞をいただいて、そこからいろいろなつながりができました。
この商品で多くの命を救える
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わが社は紫外線照射装置「エアロシールド」を作っているメーカーです。2006年設立です。近年のトピックスとしては社名を製品名の「エアロシールド株式会社」(以前の社名は「エネフォレスト株式会社」)に変更し、富士通ゼネラルと戦略的資本業務提携をしたことです。社名変更したのは販売店さんに大手の会社が増えてきて、この商品のメーカーってどこなのかが分からなくなってきたからです。大分の企業がメーカーだとは思われてなくて、この商品1本に絞るということが理由です。
もともとは医療、介護施設、保育園がメーンの顧客でしたが、コロナ禍で東京ドーム、大分空港、それと、音がしないのでニッポン放送の全スタジオにつけていただきましたが、そういうメリットがある商品です。
良い製品をただ売れば良いという話ではなくて、この業界では実験データをカタログに載せるのが普通なんですが、私たちはお客さんの実空間でこのくらい効果があるかということを実際にやるとか、地域の小企業なので信頼を得るためには上っ面のPRではなくてそういうことを地道にやって信頼を得てきました。ソフト面もしっかり取り組んで、感染対策のノウハウも提供できるようになったのが背景にあると思います。
大学は北九州市立大学で、大手企業に入社しましたが3年で辞めました。25歳で今の会社に入社しました。それまでは何でも出来るという無敵感があったんですが、単に(大企業の)看板をしょっていただけなんだなと大分に帰ってきて気づきました。当時は感染対策に世間の理解もなく、経営が苦しい、債務超過の時期が11年ほど続きました。その後、私が社長になって調子も良くなってきたという感じです。 -
木原さんの場合、父上が新規事業のために新しい会社を立ち上げてプロトタイプが出来上がってどう事業化しようかというところで部長にされたっていうことですよね。ジョインしたのはなぜですか。
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感染対策をすることで人の命を救えると思ったんです。私は医療従事者ではないけれど、これをやれたら多くの命を救えることにつながるかなと、それがやらなきゃと思ったきっかけですね。
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やっているのが父親の会社か、例えば友だちの会社かで違いはありますか。
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あると思います。父は厳しい人で好きじゃないんですが、どこかで父を超えたい、認められたい、という気持ちもあって、これは僕がやらないとうまくいかないし、広げられないという無敵感もあったので。
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コロナ禍の今ならともかく当時は事業化も難しい分野ですよね。もう辞めたいとか思いませんでしたか。
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いっぱいありました。11年間の債務超過でもつぶれずにやってこれたのは、諦めたら格好悪いというプライドがあったんですね。また多くの人を救える可能性があるとずっと思っていたので、それらを支えに。あと先輩とかに応援されたり。父が仕事をしないのを、他人のせいにしているだけで自分の覚悟が決まっていないと気づいてから、状況は変わってきましたね。
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顧客から改良の要望が来て製造にフィードバックする過程でお父さんとのコミュニケーションは発生しますか。
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発生しますね。ただ、私は営業先にいかに短時間で信用してもらえるかをひたすらやっていましたので。
苦しい時代が事業の覚悟を促す
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お二人とも家族が関与している会社にジョインしたということでは後継ぎです。私は「出島戦略」と名づけていますが、新事業のために新会社を作って本業を取引先にしていく、そこで本業を発展させる、そういう「出島戦略」の事例が最近多いんです。大藪さんはまさにそうですよね。
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酪農モデルでは利益が出ないし、政治力を発揮して変えるには50代60代まで待たないといけない、30代でやるしかないモードになって600万円だけ借金して工場を作りました。22、3カ国のヨーグルトを食べ歩きましたが、どの農家も「酪農じゃ稼げない」というのがヨーグルト作りのきっかけでした。なぜヨーグルトにしたのかは、まず牛乳だと味の違いが分かりにくいからです。アイスは果汁ジェラートにかなわなかったし、チーズは効率が悪い。ヨーグルトだったら濃さが見てわかるし大手メーカーは作れないからです。
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後継ぎのイノベーションの源泉に悔しさがあると思うんですね。だから20代の暗黒時代はあったほうがいいと思うんです。
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そう思いますよ。そうじゃないとチャレンジできなかったし、私も前職に比べれば給与も3分の1くらいになったので、20代でいかに苦労できるかがポイントだったというか、やったからこそ今があるなと。
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お二人にうかがいたいのですが、いま自分が20代に戻るとしたらやってみたいこと、やったほうがいいことがありますか。
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絶対に戻りたくないですね。人格を否定される衝撃とかどうしようもない葛藤とか、おどおどと考えたくない(笑)。
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私も戻らないですね。自分を信じてあげないと自分がかわいそうなので、20代の自分にはよくやってるよと言ってあげたいですね。
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ファミリーで経営することの難しさってありますか。
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ファミリーは最後の最後には絶対に裏切らないはずだと、そこはあるのかなと思います。先祖の土地を担保にしていたので、そこは違うので、純粋に強みだと思います。
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ケンカしても完全な憎しみではない。仲間というか、最後は助けてくれる。ただ親子が仲良くやっているのは聞いたことないですよね。あとは、方向性を切り出すかどうか、なかなか共有できないですけどね。先輩からは「怖いけど自分で牧場持つしかない」と言われました。その人も親とケンカして自分で工場を建てたんですけどね。
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円滑な事業承継というのは「ない」と思っていて、ハードランディングの方がむしろ良いと思っています。親とちゃんとぶつかる中で自分の覚悟も決まるし、必要なプロセスだと思います。
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振り返ってもそういう感じでした。その確執を引きずらないのがファミリーの良い点ですね。
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木原さんに尋ねたいんですが、今回大手企業と資本業務提携した理由はなんですか。
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私たちの商品はエビデンスもしっかりとっているんですが、コロナ禍になって、売れるから有象無象の商品が出てきて効果がないだけならまだしも、有害な商品もあって、私たちも自社製品が売れる売れないではなくて、スピード感を上げないと世間がまずい方向に行っちゃうと考えました。国内外で正しく広めるにはどうするか、提携したのは空調メーカーなんですが、お互いにコミットメントできる関係性をつくるために資本業務提携という形をとりました。木原家の事業だけにとどめておくのはまずい、社会に必要なことなので、そういう決断ができたんだと思います。
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大藪さんのヨーグルトも木原さんのエアロシールドも、どちらもお二人でなければ生まれなかった。お二人とも自分らしい事業に家業を寄せていっている、これがベンチャー型事業承継だと思っています。その方が楽しいし、苦しいことも乗り切れると思うんですね。ここらへんで質問を。
地方で事業すると目立つし支援も手厚い
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九州など地方にいる強みはありますか、との質問です。
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あると思います。地方だから競争は激しくなく、頑張れば目立ちます。自治体の方々もたくさん応援してくれるので。
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行政からこんなにありがたい仕組みを準備していただいて、いろいろ活用させていただいています。木原さんがおっしゃるとおり、九州や熊本だと目立ちますよね。
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中央だと埋もれちゃうし、行政も中央に向かってPRしてくれるじゃないですか。
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後継ぎとして家業を継いでよかったと思った瞬間は。
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暗黒時代にいろいろ試行錯誤することで無限に発想も湧くし、相当自分の力となっているし、自分を信用しないと売れないし、伝える力も醸成されたと思います。それがなかったら自分も努力してないので、その時代が今の力になったって感じですね。
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20代のころは諦めてました。自営に関しても酪農業の仕組みに関しても。でも自分の手元にハンドルとアクセルとブレーキを置いた瞬間からどうにでもなるわと思ったんです。父も循環型酪農を胸張ってやっているので、それを途絶えさせるのも格好悪いし、農業は懐深くてなんでもできるし、自分が好きなことで誰かのハッピーにつながらないとダメだと思うんです。人間いつかは死ぬんだし、生きている今、面白さを話せるようになればいいなと思います。
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20代30代の後継ぎの暗黒時代を、社会が、地域が、応援するようにしたいんですよ。多くが人知れず孤軍奮闘しているんですよ。応援して地域のロールモデルをつくったら、後継者問題も改善すると思うんですよ。これから後継ぎ支援を皆さんでしていきませんかという投げかけをして、終わりたいと思います。
(取材・編集:2021年10月27日)